秋元英良の22年 建持千佳の22年
國枝の22年 1985年4月 入社
目次
  • 第一章
  • 第二章
  • 第三章
  • 第四章
  • 第五章
第一章

高校の時、初めて行ったスキーの魅力に惹かれ、
大学から本格的にスキーを始めた。


國枝イメージ1大学在学中にスキー検定一級を取得。
もちろんそれは、クラウンプライズ(スキー検定の最上級)を目指す上での通過点。
充実した大学生活だった。


就職活動は、プラント業界と建築業界を志望した。
大学生時代、機械工学を専攻していたこともあり、
大きなものを作りたいという夢があった。
『オルガノ』への入社を決めた。


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世界情勢
1985年 バブル全盛
1985年10月 プラント技術第1部異動 1989年3月 結婚
第二章

入社すると、希望通りプラント設計の部署に配属された。
エレクトロニクス業界向け水処理装置の設計。
納期のスピードに着いていけず、上司によく怒られた。
必死に勉強した。仕事に没頭していた。


その代わり、冬休みはスキーに、スキーに、スキーに充てた。
クラウンプライズという目標に、ただひたすらに滑った。


仕事もプライベートも、常に目標を設定することが性に合っている。


94年リレハンメルオリンピック。
荻原健司の大活躍。
世界に通じるスキーヤー自分まで誇らしい気持ちになっていた。


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1992年 高校野球で、松井秀樹5打席連続敬遠
1993年4月 長女誕生 1995年6月 ジャカルタ事業所に異動
第三章

入社10年目。東南アジア向けの仕事が増えてきた。
考えられない位の受注が入ってくる。


そんな時、ジャカルタ事務所(インドネシア)への異動の話。
こんなチャンスは無駄にはできない。妻と2歳になる娘と3人でインドネシアへ向かった。


異国の地でも、家族を楽しませたい。
そんな思いから、休日には1日10時間インドネシア語の勉強に明け暮れる。
1ヵ月後には日常会話、ビジネス会話共に困らない程度になった。


ジャカルタ事務所には、日本人が2人。自分ですべての業務をこなさなければならなかった。
つまり、経営も営業も技術も現場監督も・・・事務所で雇っているインドネシア人従業員の生活までも考えて仕事をしていた。 大変だが、やりがいは計り知れなかった。


努力の甲斐もあってか、やりがいのあるジャカルタ勤務は快適になっていった。
飯は美味く、親日家も多い。家族も楽しんでいた。


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1997年 山一證券破綻
1997年12月 プラント事業部に異動
第四章

國枝イメージ2 2年半後、インドネシアにもすっかり慣れた頃、本社に戻った。
東南アジアの温暖な気候に慣れたせいか、日本は肌寒い。
帰国後1年間は、大好きなスキーもできないほどだった。


昔からの仲間達は変わらずに迎え入れてくれた。
同僚は仕事のレベルが上がり、後輩はすべてを指示しなくてもこなせるようになっていた。
浦島太郎気分だ。
ジャカルタでの経験を活かし、最大限努力した。


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1998年 長野オリンピック開幕
2000年 シドニーオリンピック 谷亮子/高橋尚子が金メダル
2003年7月 課長に昇格 2005年4月 コストダウンチームのライン長に昇格
第五章

2005年、新設の部署である、コストダウンチームのライン長に就任した。
「まさか自分が」とビックリした。
とてもキツかった。が、しかし、やりがいもある。
今思えば、ジャカルタ事務所での経験や、コストダウンチーム長など、オルガノは若い時期からガンガンチャンスを与えてくれる。 そこがオルガノの良さだと思う。


私生活では、もちろん今でもクラウンプライズ取得を目指している。
シーズン以外の休日もトレーニングは欠かさない。荒川土手を10kmジョギング。


皆さんも、自分なりの目標を掲げて、そのゴールに向かって邁進して欲しい。
常に目標を定めることで、自分のやりたいことができる。自己実現ができる。


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2001年 東京ディズニーシー開園
2003年 米英によるイラク侵攻作戦開始
2004年 アテネオリンピック開幕
3人のエピソード: 國枝 達也   建持 千佳   秋元 英良